大内義隆の子孫と言われる、愛媛県北条市の豊田家の一族が、29日、義隆が最後をとげた長門市湯本の曹洞宗「大寧寺」を訪問、境内にある義隆主従の墓所(県無形文化財指定)を参拝した。
義隆は、天文20年(1551)、武道派の重臣、陶晴賢らの反逆によって山口を追われ、大寧寺で自決。子ども たちもすべて殺され、子孫は全て滅んだというのが歴史上の定説。しかし、豊田家では代々、大内家の子孫だ という言い伝えが残っていた。一族の話によると、昨年の春、紛失していた豊田家系譜が発見され、義隆の子が 愛媛県に逃げ延びて、豊田に姓で子孫を繁栄させたことが判明したという。 9月1日には豊田家の菩提寺でもある 北条市の「法善寺」(村口泰則副住職)で義隆の450回忌法要も営んだ。
この日訪れたのは、村口副住職を含め13人。義隆が自刃した日と言われる28日(旧暦9月1日)山口市に到着 し義隆の菩提寺「龍福寺」を参拝した。義隆が山口から落延びた経路をジャンボタクシーでたどり長門市に到着。長門市板持四区の郷土史研究家、利重忠氏の案内で、義隆ゆかりの地を訪問した。利重氏は義隆の生涯を綴っ た「名族大内氏の盛衰」の著者とあって、大内氏の歴史に詳しく、豊田家の人々も興味深く利重氏の話に耳を傾け ていた。陶氏の軍勢に追われた際、義隆らは長門から船で逃げ延びようと計画。青海島大日比」の「上利家」に船 を調達してもらったお礼として「上利家」に贈ったといわれる千手観音が同地区の西円寺に安置されていることから 同寺も訪問。一度は海上に出たものの強風のため引き上げた只の浜海岸などを見学。義隆がたどった悲運の歴史 に思いをはせていた。 翌日は旧参道を通って大寧寺へ。義隆、息子の義尊らの位牌にふれた後、義隆主従の墓所を参拝した。義隆の 息子が北条市に落延びた後、酒屋を営んだとされることから、地元の酒を持参し奉納、村口副住職がお経を唱える 中、豊田家の人たち全員で焼香した。
豊田家の系譜によると、義隆の二男で当時七歳の「幾代丸」が義隆自刃後、海路を利用し愛媛県北条市(伊予 風早町)に逃げ延びてきた。大内姓を豊田姓に改め名前も幾之進本義と改名。酒造業を営み(黒川隆像の娘節女と 結ばれ)五人の子どもを育て(93才で亡くなっ)たとされる。元亀元年(1570年)には父、義隆(常信院殿法壽日剱 大居士)の菩提と豊田家の繁栄を祈り「法善寺」を創立した。当時の状況から、逃げ延びた「幾代丸」が大内氏の末 裔だということを隠ぺいするため、豊田家系譜(並びに系図)は代々門外不出とされ、これまで豊田家以外の人の目 に触れることはなかったという。その伝統が長らく豊田家の人々の家訓として伝わっていたようだ。
歴史上伝えられる大内氏の系図には「幾代丸」という名はない。しかし、利重氏によると、義隆には、義尊、弘盛、 義教、亀鶴の四人の男児があり、「幾代丸」として可能性の高いのは鶴亀。鶴亀は内藤興盛の娘が義隆の側室となって生んだ子ども。義隆の死後、弘治三年(1557年)11月、大内氏の家臣らが、鶴亀をもり立て大内家再興を企てたが、毛利氏の家臣に鞍替えしていた内藤隆春に殺された-というのがこれまでの説。しかし、内藤隆春は亀鶴の実の叔父にあたり、歴史家の間でもこの説を疑問視する人は多い。内藤隆春が亀鶴を殺害したと見せかけて逃がしたこと が十分に考えらえるという訳だ。鶴亀を「幾代丸」と想定すると年齢もほとんど同じで、非常に信ぴょう性が高いという。
また長門と山口の間には義隆に好意を持っていた豊田氏の居城があり、愛媛県に逃れる場合には、この豊田家の 存在が不可欠だったと考えられている。豊田氏は現在の豊田町をおさめていた大内家の家臣で、室町時代の 天平年 間に一族の内紛があり、一派が愛媛県の二神島に移住。二神氏を名乗るが、長門の豊田氏との交流はその後も続き、 今なおその子孫が繁栄している。こうした事情からも、義隆の子どもが豊田氏、二神氏を通じて愛媛県に逃れたことが 想定される。 利重氏は「戦国の世のことで系図がないから間違いとは言い切れない。義隆の子孫が愛媛県で生き延びていること は山口市の歴史家の間でも非常に関心をもっており、今後も研究を続けていきたい」と話している。
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