Here is a general description of Mimana.
Mimana
alternative words: Kaya
keywords: korea, state
related topics: Yamataikoku , Silla
related web sites: http://www.din.or.jp/~tommy/Kaya.htm
explanation: Southern extremity of Korean peninsula had been inhabited by Japanese. It appeared in the 3th century as one of states composing Yamataikoku with the name of "Kuyakankoku". Due to its strategic position and iron mine, Japan had extended this zone during 4th century then it began to shrink and disappeared in 562: because of an appearance of horse riding battles in Korean peninsula, it became more and more difficult to keep this zone for Japanese. Kaya is the Korean name of Minamalink
I am not interested in whether Mimana really existed or not.*
But it is interesting to see how the same article in the wiki in Korean is different from the ones in Japanese and in Chinese.
ponta at occidentalism
Japanese version ** of the article cites primary sources from China, Korea, and Japan and it concluded the several ancient books mentioned Mimana and they described where it was and when it was destroyed and it is most likely that Japanese residents lived in the peninsula.
Chinese versoin mentions the same source and conclusion is the same.
However, Korean version of the article completely ignores the Chinese ancient documents for some reasons and conclude that there are several theories about Kaya. Korean interpretation is that native Kaya people built the state and went over to Japan, or Packhe built it in order to control Kaya. oth theories insinuate that it was not Japanese who built it.
But if we take Chinese sources seriously, such interpretation is impossible.
I guess that is the way Korean nationalists built up their myth about history.
see also
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*I think the following quote sums up the nature of Kaya/Mimana
Claims by historians prior to World War II that Paekche paid “tribute” to Japan, and that Japan conquered the southern tip of the peninsula where it established a “colony” called Mimana have since been largely discounted by historians in both Japan and Korealinkand
The kingdom of Kaya, in the south between Paekche and Silla, certainly existed, but what exactly this entity was is still controversiallink
And even the article about Goguryeo in wiki proves that there was kaya.
kayaGoguryeo/wiki
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Japanese version of the article
任那と任那日本府
記紀の記述をもとに、任那日本府は倭国の属領もしくは貢納国であり、任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有しており、事実上の属領であったと考えられていた。
し かし、1960年代頃から韓国や北朝鮮において旧来の日本の歴史観に対する、理性の無い感情的反発が起こり[1]、また日本でも1970年代頃より新たな 視点から再検討が行われた結果、記紀に記されているヤマト朝廷の直截的な任那支配は誇張されたものと歪曲されるようになり、任那日本府については倭と関連 する集団(倭臣、倭人集団)が任那地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたとする説が主流となってきている。ただし、近年になって任 那に相当する地域から日本特有の墳墓である前方後円墳が相次いで発見されたため、倭と任那の関係については更なる見直しの必要に迫られているというのが実 情である。
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中国史料における任那
(日本書紀(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高いとされる)
『魏志東夷伝』弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
『広開土王碑』400年条の「任那」が史料初見とされている。
『宋書』では、「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲され、『南斉書』も併記を踏襲している。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
『翰 苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700~800里の地点に並在している。」と記され ている。類書の『通典』(801年成立)、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
これらから、中国史料における「任那」は、
三国時代(220年 - 280年)の「弁辰」に替わって、
宋代(420年 - 479年)にはすでに成立しており、
450年頃、加羅が任那から分立した。
任那は、梁代(502年 - 557年)に、特に525年以前に新羅に滅ばされた。
任那の故地に関する記憶は唐の高宗(649年 - 683年)の時代まで残っていた。
と総括できる。
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朝鮮半島史料における任那
朝鮮半島史料では任那の存在は殆ど忘れられた存在となっていた。朝鮮半島史料では任那は百済と新羅によって滅ぼされた伽耶諸国として記憶されるのみである。
『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立)に「任那」が見えるが、
『三国史記』(1145年成立)の『本紀』には全くみえず、『伝』に僅かに1例が認められるのみである。
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日本史料における任那
『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那」が見え、
『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条~天武天皇条に「任那」が多く登場し、
『新撰姓氏録』(815年成立)に「任那」、「弥麻那」、「三間名」と見えている。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。
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東アジア情勢から見た任那の興起
魏 に続く晋代になり、290年頃、八王の乱が起きて中原が乱れると、慕容氏が強勢になり、遼東と遼西に進出し楽浪・帯方両郡は中原との陸路の連絡を絶たれ弱 体化し、313年、高句麗により楽浪郡が、引き続き帯方郡が滅亡した。346年、前燕(慕容氏)による高句麗の一時的壊滅と、さらに357年、前燕の中原 進出に伴う高句麗の再起と、朝鮮半島南部への政治的圧力関係は、めまぐるしく情勢が変化した。この間に朝鮮半島南部の政治状況は一気に流動化したと考えら れ、魏代の弁辰(弁韓)諸国は任那に再編成されたと推測される。一つの仮説ではあるが、その時期は320年から350年、しぼってみると345年から 355年頃ではないかと考えられる。
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中国史料と日本史料の統合による任那の滅亡
『日本書紀』512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載され、
『梁職貢図』(525年頃成立)にはすでに「任那」の記載はない。
これを総合すると「任那」は512年から525年に滅亡したと考えられる。この後『日本書紀』には、「任那復興」と記されているが、これは「任那の貢納の再興」と解することができよう。
『日本書紀』の欽明天皇の項目では、任那の滅亡年を560年もしくは562年としている。これは任那の滅亡後に、「再興された任那の貢」を代行して納めていた国々の滅亡と捉えられよう。
なお、通説によれば「任那四県」は現在の全羅南道に比定されている。全羅南道には5世紀後半に比定される前方後円墳が10基以上認められ、倭と密接な関係があったことを窺わせる。
「加羅」は現在の慶尚道に比定されており、したがって「任那」と「加羅」とは同一地域の別称ではない可能性が高い。
ま た、任那四県割譲(任那滅亡)後に残った加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他 国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国を総称して任那と呼んだという記述もあるが、これ は滅亡した任那の貢を代行して納める国々として解される。
Chinese version of the article
任那
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任那(みまな"mimana"、にんな"ninna"369—562年)是古代被認為存在了的朝鮮半島的地域。三韓中的弁辰,弁韓的地相當於。以前被認為在倭的任那日本府統治下。目录 [隐藏]
1 在中國史料的任那
2 在朝鮮史料的任那
3 在日本史料的任那
4 從東亞形勢看任那的興起
5 綜合中國史料和日本史料,推導任那的滅亡
6 關聯項目
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在中國史料的任那
{包含比(日本書紀(720年成立)舊的記述都,可靠性高。)
有『魏志東夷傳』弁辰各國條的「彌烏邪馬」作為任那的前身的見解,不過,普遍沒被認可。
『廣開土王碑』400年條的「任那」被認為是史料中第一次出現。
『宋書』,「弁辰」消失,438年條中「任那」顯現出來,在451年條「任那,加羅」2國家並列,此後也被沿襲,『南齊書』也沿襲著兩國並寫。
『梁書』,改變「任那,伽羅」並寫的記述方法。
記載525年前後狀況的『梁職貢圖』中的百濟條,列舉百濟南方的諸小國,不過已經沒有任那的記載。
『翰 苑』(著于660年)新羅條中出現「任那」,其注解(寫于649-683年)冩道「根據新羅的故老的傳説,加羅和任那被新羅毀滅了,不過,那個已故地,新 羅國都的南700~800裡的地點,依然存在。」。內容相似的『通典』(著于801年),『太平御覽』(著于983年),『冊府元龜』(著于1013年) 的記述大體上相同。
從這些中國史料中的「任那」可以總結出、
三國時代(220-280年)該地是「弁辰」在、
在宋(420-479年)時該國已經成立、
450年左右,加羅從任那分立。
任那,梁代(502年-557年),特別525年以前被新羅毀滅了。
有關任那的已故地的記載到唐的高宗(649年-683年)時代仍殘留著。
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在朝鮮史料的任那
『鳳林寺真鏡大師寶月凌空塔碑文』(著于924年)中出現「任那」、
『三國史記』(著于1145年)的『本紀』無記載,『傳』僅僅提及一次。
從這個事,到924年左右,有關「任那」的史料,或是記憶殘留著,不過,12世紀編寫『三國史記』的時候,有關「任那」的史料,暗示了曾完全丟失的歷史中的大部分。
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在日本史料的任那
『肥料前風土記』(著于713年)松浦郡條中出現「任那」、
『日本書紀』(著于720年)崇神天皇條~天武天皇條「任那」大量地登場、
『新撰姓氏錄』(著于815年)中出現「任那」,「彌麻那」,「三間名」。
地理上,任那是在朝鮮半島的日本最近的地域,日本的史料提供著最豐富的信息。
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從東亞形勢看任那的興起
魏 之後的晉,于290年,發生八王之亂,之後五胡亂中華,慕容氏漸強,進入遼東和遼西,樂浪、帶方兩郡隨之幾乎斷掉跟中原的陸路的聯絡,313年,高句麗, 樂浪郡,帶方郡相繼滅亡。自於346年,前燕(慕容氏)的高句麗一時滅亡,357年,前燕進入中原,高句麗再起,这时對朝鮮半島南部的政治的壓力關係,眼 花繚亂形勢變化了。最近朝鮮半島南部的政治狀況能認為一口氣流動化做了,魏費的弁辰(弁韓)各國被推測為任那等國。這只是一個假設。不過,如果認為那個時 期起于320年迄于350年,試著推理的話,從345年開始,不就可能是355年的時候嗎?
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綜合中國史料和日本史料,推導任那的滅亡
『日本書紀』512年條記載百濟割讓「任那四縣」、
『梁職貢図』對於(525年左右成立)已經沒有「任那」的記載。
綜合這些,「任那」從512年開始525年滅亡了。 之後『日本書紀』中記錄「任那復興」的事,對此也是旁證。
然而,
『日本書紀的』欽明天皇的項目,作為560年也如任那的滅亡年562年。
『三國遺事』,弁韓各國裡面,新綾羅最鄰接的伽耶的滅亡時間記作為532年。
從這些的記述,在任那四縣割讓後的殘留的任那的實際的滅亡年難以推測。再者,一般的文本把562年作為滅亡年。
再 者,根據一般的說法「任那四縣」被認爲相當於現在的全羅南道。「加羅」相當於現在的慶尚道,跟隨所謂「任那」和「加羅」與同樣地區的別號難說的可能性高。 然而,根據任那四縣割讓後的殘留的任那,是加羅國(Kara),安羅國(Ara),斯二岐國(Shiniki),多羅國(Tara),率麻國 (sotsuma),古嵯國(Kosa),子他國(Kota),散半下國(Sanhange),乞飡國(Kotsusan),稔禮國(Nimure)十國 總稱這樣的記述,加羅是任那的一地方政權的可能性極為高。
Korean version of the article
임나일본부
위키백과 ― 우리 모두의 백과사전.
니 혼쇼키에 따르면, 4세기경 왜국이 한반도 남부 지방에 임나일본부(任那日本府)를 세웠다고 한다. 일본 제국의 식민 사관에서는 조선을 식민지화를 정당화하기 위한 수단으로 사용했다. 임나일본부의 기능에 대해서는 지금도 여러 가지 설이 있다.
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사료
니 혼쇼키의 백제본기에는 진구 황후가 369년 가야 지방을 점령해 임나일본부를 두고 실질적인 통치를 하다가 562년 신라에 멸망했다고 쓰여 있다. 그러나 니혼쇼키는 천황의 왕권을 높이기 위해서 쓰여진 것으로 한국·일본 어느 쪽에서나 사료 가치가 높은 것으로 받아들여지지 않는다.
광개토대왕비의 신묘년(391년)에 해당하는 곳에는 “百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以臣民”이라고 쓰여 있는데, 일본 학자들은 “왜가 바다를 건너 백제, 임나, 신라를 격파하고 신민으로 삼았다”고 해석한다. 한국 학자들은 비문이 변질된 것이라고 여긴다. 또한 필체 등을 들어 비문의 일부가 20세기 초에 일제에 의해 조작된 것이라고 주장하는 학자도 있다.
‘임나’는 가야, 특히 아라가야를 부르는 말인 것으로 추정된다.
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지금의 학설
백제본기에는 여러 가지 해석이 있어서 한일 양쪽 어디에서도 정설이 따로 없다. 학설 가운데 몇가지를 뽑아 보면,
가야 지방의 일본인을 관리하기 위해 일본 조정이 세운 기관이었다는 설.
일본이 가야 지방에 일본부를 두고 가야를 실제로 지배했다는 설.
일본과 외교 관계가 돈독했던 가야 동맹의 한 나라였다는 설. [1]
가야인이 일본 열도로 건너가 세운 나라였다는 설. (조선민주주의인민공화국이 주장하는 것.)
백제가 가야를 지배하기 위해 세운 기관이었다는 설. (대한민국 사학계 중 일부가 주장하는 것.)wiki
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韓国の「国定韓国高等学校歴史教科書(1996年版)―明石書店2003年2月10日発行」では、「古朝鮮」と言って、中国の山東半島から、中国満州地方南部、朝鮮の38度線付近までを「衛満」氏が統治していたと記載しています。
しかしこの記載には、彼が朝鮮人だという記載がありません。
つまり、誤魔化しているのです。
「衛満」氏は中国の「漢」の一部族です。
<朝鮮人>だったという「確証」は何一つとしてありません。
むしろ「中国人」だったのです。
つまり当時の三韓は、【朝鮮半島】のごく一部(1/2くらい)にすぎませんでした。
朝鮮の南部を支配していたに過ぎませんでした。
これについても、そうではなく、さらに南部、【朝鮮半島】の1/4に過ぎなかったという見解も有力です。
「衛満」氏はもと大陸の燕の人で、紀元前190年ごろに王となり、紀元前108年に、前漢の有名な武帝に滅ぼされました。
そのあと、【朝鮮半島】の南の一部(三韓の部分)を除いた大部分は、シナ王朝・漢の植民地となり、四つの郡が置かれて、漢から派遣された役人が支配していました。
楽浪・臨屯・真番・玄菟の四つです。
このうち楽浪郡は卑弥呼の時代まで名前が残っていました。asahinet
http://zeroempty000.blogspot.com/2006/10/kayamimana-in-article-of-wiki.html
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